今でもその美しさと歴史的価値から2016(平成28)年9月に「日本の国石」として認められた翡翠は、太古から多くの人々を魅了し続けています。
特に日本が誇る翡翠の産地、糸魚川の翡翠は約5億2000万年前に出来た、”世界最古の翡翠”であることはあまり知られていません。
そして、日本の翡翠が縄文時代以降、7000年以上の歴史を誇ることもまた、あまり知られていません。
世界最古の日本の糸魚川翡翠は縄文時代から、太古の日本人に愛されていたって、ご存知でしたか?
翡翠は世界最古の宝石だった!
金や銀、真珠など、宝石と呼ばれるものは多々ありますが、実は翡翠こそが人類が宝石として身につけていた太古の装飾品ということは、残念ながらほとんど知られていません。
2010年に登米市の小竹貝塚(おだけかいづか)から約6000年前のものと見られる製作途中の翡翠の垂飾(たれかざり)が出土したことから、翡翠が人類が初めて身につけた宝石であることが判明しました。
小竹貝塚から発見された翡翠の垂飾は翡翠を装飾品として利用した世界最古の例であり、宝石としての利用も世界最古級なのです。
また糸魚川市にある大角地遺跡(おがくちいせき)からも約7000年前にハンマーとして使われた翡翠が発見されており、こちらも世界でもっとも古い翡翠の利用となっています。
縄文人の遺跡から発掘される翡翠と翡翠の加工工房
国史跡に指定されている長者ケ原遺跡(ちょうじゃはらいせき)からも翡翠は発見されており、こちらの遺跡から出土する翡翠は翡翠の加工する前の原石や勾玉や大珠(ひすいたいしゅ)、石斧などが発掘されており、この事実から少なくとも5000年前には太古の日本人は翡翠を加工し、斧やアクセサリ、宝石として翡翠を生活の中に取り入れていたのではないかと考えられています。
長者ケ原遺跡にほど近いところにある寺地遺跡でも長者ケ原遺跡と同じように翡翠の原石を搬入し、加工した工房があることが調査で判明しています。
これらの遺跡から翡翠と加工工房が発掘されたことにより、太古の日本人は、縄文時代からすでに翡翠を生活に一部に取り入れていたのではないかと考えられています。
これらの事実から縄文時代の頃には、すでに古代日本人の文化の中に翡翠が重要な役割を果たしていたことが伺えます。
それにしても、5000年前という現代に比べて、道具も知識も乏しいであろう古代の日本人がモース硬度6以上の翡翠に穴を空けたり、勾玉の形に加工したりしていたのですから、驚かされますよね。
今の時代ならば機械で簡単に加工できる翡翠も、5000年前は何日もかけて1つの翡翠を加工しなければならなかったのです。
なぜ縄文人は、翡翠を加工し「勾玉」や「大珠」にしていたのか?
当時の技術では数日がかりで、加工する必要があった翡翠を、なぜ当時の人はステイタスシンボルとして愛していたのでしょうか?
翡翠の斧や首飾りは実用的ですが、勾玉は生産用具でも、絶大な付加価値を持つものではありませんでした。
また勾玉は世界でも類例がない独特の形状をしており、なぜそんな形状にする必要があったのか。
当時としては硬い翡翠にわざわざ穴を空ける必要がなぜあったのか。
そして、当時の人は翡翠を宝石として扱い、勾玉を身につけていた、それはどうしてだったのでしょうか?
その理由として考えられるものは”シャーマニズム”※1にあると考えられています。
※1シャーマニズム……死者と交信して神意を示したり,悪霊を祓ったり,予言したりする原始宗教の一形態のこと
翡翠大珠に見る翡翠のシャーマニズム的な意味
翡翠の勾玉を、平べったく伸ばしたような形の、細長い楕円形(多くは5~15cm前後)をしたモノを翡翠大珠(ひすいたいしゅ)と呼びます。
この翡翠大珠は、何に使われたのか、社会的にどのような意味があったのか全くわかっていませんが、何かしらの宗教的意味があったのではないかと考えられています。
あの硬い翡翠を勾玉や大珠に加工するのは先にも触れた通り簡単なことではありません。
しかし、私たちの5000年前の太古の祖先たちは、加工しやすい柔らかい石、「滑石」や「ろう石」から試行錯誤をはじめ、徐々に徐々に今知られる勾玉や大珠の形を作っていったのでしょう。
その過程で勾玉や大珠を作ろうと思った人の頭には、何かの目的、漠然としたイメージがあった。その漠然としたイメージのもと、作り上げられた勾玉や大珠に何かしらの宗教的な意味があったとしても、何もおかしなことはありません。
勾玉がなぜ我々が知るあの形になったのかは定かではありませんが、大珠には少なくともあの特徴的な”穴”を空ける宗教的な意味があったのではないかと考えられています。
もしかすると勾玉や大珠には魂振りと魂鎮め、パワーアップとヒーリングの力がある、神々のパワーを人々に分け与える重要な宗教アイテムとしての意味が、太古の人にはあったのかも知れません。
確かに、勾玉と大珠に空いている穴は、紐を通さず穴だけを見ていると、なんだか見るものを不思議な気持ちにさせます。
◆古代の日本人も宝石として愛用していた翡翠の勾玉や大珠に想いを馳せる
現代の考古学研究をもってしても、勾玉の形の由来や大珠が、実際にどのような使われ方をしていたのかは、定かではありません。
少なくとも古代の――6000年前以上の先祖たちは、翡翠を装飾品として身につけていた。
その後、翡翠は装飾品に限らず、宗教的な意味を持つ勾玉や大珠の形に加工されることが増えていき、その結果、古代人の遺跡からは翡翠の装飾品勾玉や大珠が数多く発掘されるようになったのでしょう。
そして、太古の日本人も今の日本人と同じように翡翠が持つパワーに引かれ、宝石として身につけたり、祭祀具として使ったり、装飾品としての翡翠を貢物や贈り物として誰かに渡していたのではないかと考えられています。
そんな太古の日本人も宝石として扱っていた翡翠が、今も私たちの生活のそばにある――それはとても嬉しくも、不思議なことではないでしょうか。
アナタもこの機会に太古の日本人を魅了した翡翠の持つ不思議なパワーを、もっと身近に感じてみませんか。