最近の研究によって、パワーストーンとしても知られる翡翠は7000年以上も前から、太古の日本人の文化に根付いていたことが判明しています。
しかし、なぜかある時を境にして、翡翠の文化は途絶えてしまい、日本の翡翠の産地も謎に包まれていました……1938年に翡翠の産地が新潟県の糸魚川に再発見されるまでは。
実は1938年に糸魚川翡翠が発見されるまで、日本人はそこまで翡翠を重要視して来ませんでした。
また、それまでの考古学者にとって出土する翡翠はどこから来たのか謎の存在であり、昭和初期までミャンマーが唯一の産地と考えられていたこともあって、海外から翡翠が輸入されていたのではないかと考えられていたほど。
それにしても、なぜ翡翠の産地は発見ではなく、”再発見”なのか、その理由をご紹介させていたd買います。
太古の人は知っていた糸魚川翡翠
なぜ翡翠の産地”発見”ではなく、”再発見”なのか。
再発見ということは、すでに一度誰かの手で発見されていたことになる、それでは一体誰が糸魚川翡翠を発見したのか?
まず、今私たちが日本最大の翡翠の産地が糸魚川にあることを知ったのは、1938年に糸魚川市在住の伊藤さんが「緑色のきれいな石」を見つけたことがきっかけです。
それまでの日本人は、糸魚川にまさか翡翠があるとは知らず、古代遺跡から発掘される翡翠は、どこから来たのか謎でした。
しかし、伊藤さんが糸魚川の翡翠の産地を再発見するよりも、遥か昔――少なくとも7000年前には、太古の日本人は糸魚川に翡翠の産地があることを知り、翡翠を使って斧を作り、6000年前には装飾品として翡翠を加工していたことが明らかになっています。
そう古代人は、遥か昔に翡翠の産地を発見していたのです。
ただ歴史的な出来事から、古事記以降、その時代の日本人が持つ翡翠に対する興味が薄れたこともあり、少しずつ翡翠文化がなくなっていき、残念なことに翡翠文化は日本で一度途絶えてしまった。
文化として翡翠を宗教的な祭祀品や装飾品として用いなくなった当時の日本人の翡翠に対する感心が世代をまたぐごとに薄れていき。
いつしか翡翠を発掘したり、加工したりすることを忘れ、最終的に翡翠の産地を知る人すらいなくなり、翡翠の産地は歴史から消えてしまったのでした。
そんな歴史の闇に消えた糸魚川の翡翠がひょんなことから再発見され、今や日本の国石に指定されるようになったのですから、これには歴史ロマンを感じずにはいられません。
1500年以上の時を超え甦った糸魚川翡翠のロマン
日本の翡翠文化は平安時代前にはすでに途絶えており、伊藤さんが発見するまで、糸魚川翡翠は1500年以上も誰にも再発見されることなく眠っていたことになります。
でも、1500年以上も誰にも糸魚川翡翠が見つけられなかったことは、とても不思議なことではないでしょうか。
ご存知の方も多いとは思いますが糸魚川翡翠は、糸魚川の海岸で見つけようと思ったら、翡翠はいくつも見つかります。
もし、1500年の歴史の中で、誰かが海岸で翡翠をひろい、「これは翡翠じゃないか!」と思うことがあれば、その誰かの言葉がきっかけで糸魚川翡翠はもっと早くに再発見されていたかも知れません。
しかし、歴史を振り返って見ても、そんなことは一度もありませんでした。
つまり、1500年間、誰も糸魚川海岸にある石が翡翠だということを知らず、さらに宝石だと言うことにも気づかなかったということなのです。
それまでの私たち日本人が翡翠に対して無知だったからかも知れませんが、それにしても1500年間誰も糸魚川翡翠を再発見出来なかったことは、不思議でなりません。
もしかしたら、糸魚川翡翠は現代の――太古の人たちが持っていた精神的豊かさを忘れた――私たちを見るに見かねて、その姿を再度現したのかも知れません……。